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4. 劇場地図から見る都市の展開と劇場立地の変遷

 

この章では、これまで述べてきた劇場展開を劇場地図を用いて再度確認する作業から始めて、さらに後の章で取り上げる事項についても、劇場地図によってその大筋をあらかじめ示しておきたい。劇場地図は東京とベルリンのそれぞれについておおよそ10年おきに作成してある。あらかじめ断っておかねばならないが、劇場地図を寸分の違いもなく正確に作成することは不可能である。それにはいくつかの理由があるが、最も重要なことは、劇場という概念そのものに流動的な要素が存在する点である。

前章の終わりの部分で触れたように、18731210日の警視総監フォン・マンダイの内部通達のなかで、建築・設備関係の面から劇場という名称の使用制限を強化することによって、1869年の営業自由化による無際限な劇場数の増大に歯止めが掛けられているのである。さらに1883年の商業法改正において、劇場の上演と劇場以外の施設における上演を明確に分ける措置が確定し、これによって劇場認可を受けていた興行がそれを放棄する事例が見られるようになった。つまり、それまで劇場であった施設から、法律上その劇場概念が適用されなくなるいう事態が生ずることになる。このようにベルリンにおいては、劇場という名称の使用について流動的な要素が多く、それが正確な劇場地図の作成を困難にしている。

同様のことは東京についても見られる。後の章で詳しく述べるが、日本には演劇と映画の共存という現象が見られ、舞台劇と映画を交互に繋ぎ合わせた「連鎖劇」が1910年代に流行する。舞台劇中心の劇場が映画を取り込む場合もあれば、映画中心の施設が実演をプログラムに組み込む場合もあった。このような状況が、劇場という概念を正確に用いることを難しくしているのである。

ベルリンと東京のいずれの都市にも、劇場地図を作製する上で難しい問題が存在するのであるが、しかし現在用いることできる資料を駆使して劇場地図を作り、二つの都市の劇場展開の推移を比較しながら考察することは、都市の近代化のなかで劇場の果たした機能を見ていく上で有効である。劇場立地の変化を、人口や住民層、さらにシティーの形成の問題などと複合させながら考察するのに、劇場地図は重要な情報を提供するものである。[1]

 

4-1. 1850年代から1880年代までのベルリンの劇場展開

 

それでは、まず1850年代前半期のベルリンの劇場地図から見ていこう(Theaterstandorte Berlin Nr.1)。第1章で詳しく述べたように、この時期には市壁が劇場立地に決定的な影響を及ぼしていた。ウンター・デン・リンデンのオペラ座 [1][2]とジャンダルマン広場のシャウシュピール・ハウス [2] いずれも宮廷劇場であるが、この二つの劇場以外に市壁内に興行許可を得ていたのは、宮廷と特別の関係にあった興行師ケルフのケーニヒ街劇場とフリードリヒ・ヴィルヘルム街劇場 [3] であった。前者は市壁内とはいっても東部の周辺地区に位置し、後者は宮廷劇場が休暇に入る夏季の期間に限定して興行認可を得ていた。シャルロッテン通りの新ケーニヒ劇場 [8] は、すでに詳しく述べたように、ケーニヒ街劇場 [7] 閉鎖後の代替として認可されたものである。1850年代はこれらの劇場を除くと、ティアガルテンのクロル劇場 [5]、ショセー通りのカレンバッハ夏季劇場 [4]、ツェーデニック通りの郊外劇場 [6] の興行は、いずれも市壁外の立地を条件に認可されていた。郊外劇場はローゼンタール門の外、最貧の人々が住むフォークトラントという地区にあり、非常に安い入場料で興行が行なわれた。カレンバッハ夏季劇場はオラーニエンブルク門の外、ボリジィヒなどの有力企業の進出している新工業街に展開していた。

次に1850年代後半期から1869年の営業自由化までの期間の劇場地図を見てみよう(Theaterstandorte Berlin Nr.2)。地図上の市壁は1861年の市域拡大に伴って除々に撤廃される方向に向かう。この市域拡大によってベルリンの面積は約70パーセント増大し、これまでの3551ヘクタールから5523ヘクタールになる。人口の面で見ると、特に南東部のルイーゼン地区と東部のシュトラーラウ街の住民数が1861年から1871年までのあいだに二倍になり、1870年のベルリンの総人口825937人の約3割にあたる28539人がこの二つの街区に居住するようになった。この劇場地図に見られる新しい劇場立地として、東部のブルーメン通り及びアレクサンダー広場に近いミュンツ通りが注目される。人口密度を示した当時の地図と対照させて見ると、これらの新しい劇場立地の背後には人口密度が最も高い地域が展開していることが分かる。上記の郊外劇場とカレンバッハ夏季劇場の立地についても同様のことが言える。このことは劇場と周辺住民との密接な関係を推測させるもので、当時の商業劇場がいわゆる「街角劇場」であった点を物語っている。劇場への足の便が十分でなかった当時の状況を考えると、人口密集地区におけるこのような劇場立地の展開は当然と言えるであろう。東部ブルーメン通りのケーニヒ街劇場 [11] とミュンツ通りのヴィクトリア劇場 [12] は興行師ケルフの一族に関連した展開である。東部ブルーメン通りに隣接してヴァルナー劇場 [9] が開設し、通りの名前もこの劇場の名称を冠したものになって行く。フランツ・ヴァルナーの本格的な興行拠点がこの地に置かれたことは、ベルリンの劇場史にとって大きな意味を持っている。

ベルリン劇場地図3は、1869年の営業自由化による劇場展開を示している(Theaterstandorte Berlin Nr.3)。営業自由化によって、演劇興行の認可申請をすると申請者の職種を問わず、犯罪歴などの問題点がなければその申請は認められた。その結果、すでに第2章で詳しく紹介したような劇場乱立状況がベルリンに出現したのである。劇場地図では、この数え切れない劇場の中から、1年以上の存続を記録している劇場のみを取り上げている。このように限定があるにも拘わらず、これまでの劇場地図とは全く異なる展開が見られることは一目瞭然である。

まず宮廷劇場と商業劇場の立地上の距離について、以前とは比較にならないほど接近している。市壁は60年代後半に姿を消し、劇場立地にたいする市壁の制限的機能も失われた。ベーデッカーの地図を見ると、69年以降に設立された劇場の敷地は、既存の劇場に比して狭小である。数日前までカフェ・シャンタンやレストランあるいは集会場であった所が劇場と認可されたのであるから、それまでの庭園施設を有する劇場とはまったく異なる相貌を呈したのは当然であろう。

しかし「営業の自由」の導入以後に新しく生まれた劇場立地のうちのいくつかは、その後のベルリンの劇場展開の骨格を形成して行く。劇場地図3に記載されている劇場立地のなかには、一年以上の存続どころか、20世紀初めまで、さらには1920-30年代に至るまで維持されたものもある。もちろんその間に劇場名はもとより劇場構造も変わり、また所有者あるいは賃貸者も変わったのであるが、劇場の立地点としてベルリンの劇場展開の歴史のなかで大きな存在感を示したのである。ルイーゼン地区のドレースデン通り [18]、旧ヤーコプ通り [19]、ハレ門外のベル・アリアンス通り [21] はベルリン南部・東南部の劇場展開の素地を形成した。

北部のカスタニーエン並木 [15] やシェーンハウス並木道 [25] の劇場は1910年代終わりに映画館に変貌するまで存続し、北部の劇場立地として人気を博した。東部のブルーメン通りには、後にフランスのエロチック小喜劇で人気を得るレジデンツ劇場の前身ノルヴァック劇場 [17] が登場し、既存のヴァルナー劇場とともに東部の劇場展開の中核となる。1877年には、さらに東に向かった位置にオストエント劇場 [16] が生まれ、20世紀初めにベルンハルト・ローゼがこの地に移り、大フランクフルト通りはベルリン民衆劇場のメッカとなる。「営業の自由」は劇場概念の際限なき拡大をもたらし、80年代の劇場取締政策強化の布石となるのであるが、しかし同時にベルリンの劇場立地の展開に構造的な変革を生み出したのである。

劇場地図41880年代の劇場展開を示している(Theaterstandorte Berlin Nr.4)。ベルリンの劇場数を表したグラフがはっきりと示しているように、1880年代は劇場数の減少をもたらした期間であった。第3章で詳述したように、1873年の警視総監通達で言われている建築面からの劇場概念の限定化の傾向が、1880年代に入って、大規模な劇場火災を契機にして、具体的な査察条項を伴って強化されたのである。防火・衛生関係の査察強化によって、フリードリヒ通りのトーンハレ劇場 [22] とリンデン通りの都市劇場 [23] は劇場という名称を持つことができなくなった。1849年に北部最貧街に開設した郊外劇場 [6]、南部ヨハネスティシュの周辺に住む中間層の住民を対象にヴァリエテ(歌謡漫談や曲芸を通常の演劇上演のあいだに組み込んだ娯楽)を提供した興行師カレンバッハの劇場 [10] も同じような理由で閉鎖になった。80年代については、商業法改正による、劇場と非劇場の区分の明確化の問題、劇場展開へのその影響の問題があるが、それについては後の章で詳しく扱うことにする。

 

4-2. 天保年間から1880年代までの江戸・東京の劇場展開

 

江戸・東京の劇場展開については、これまでに詳しく論じて来ているので、ここでは劇場地図上での確認に留めておきたい。まず劇場地図1(Theaterstandorte Tokyo Nr.1)は、天保年間における劇場の強制移転を表している。現在の京橋あたりに位置していた堺町の中村座 [1] と葺屋町の市村座 [2]、そこから少し南方向に位置する木挽町の守田座 [3] は、浅草浅草寺の北側に新たに作られた土地に移転した。劇場のみが移転するだけでなく、それぞれの劇場に付帯する茶屋、さらには人形芝居の小屋も同時に移動した。櫓を構える江戸三座を一つの空間に収めるこの地は、猿若町と名づけられた。第1章で紹介した今泉みねの貴重な記録は、移転による劇場集中によって、さらに船による観劇という新しい局面の誕生によって、猿若町は江戸歌舞伎全盛期の舞台となるのである。

東京劇場地図2 (Theaterstandorte Tokyo Nr.2) は、1873年の劇場制限撤廃による劇場展開を示している。東京の市区制定によって大区の数は6に決まり、このそれぞれの区に2つの劇場(総計12)を認可する方針であったが、実際には10の劇場、しかも第1区に比較的集中することになった。江戸時代の主要な町人地に劇場が集中したわけで、当初の段階では、歌舞伎小屋と由縁の薄い所には、自由化の波のなかでも新しい劇場立地が展開しなかったことを物語っている。新しい10の劇場の詳細については第2章で述べたように、(1)旧江戸3座、(2)両国に展開していた3つの旧菰張芝居、(3)旧控櫓2座、(4)旧人形芝居2座の4つのグループから新たに劇場が展開した。以上の10の劇場は大芝居と規定され、花道や廻り舞台等の本格的な設備を付帯することが許された。麻布森元町の盛元座 [13] は見世物としての認可であり、花道、廻り舞台、引幕の設置は不許可、芝居茶屋も許されなかった。

東京劇場地図3 (Theaterstandorte Tokyo Nr.3) は、1880年代の劇場展開を示している。1882年の「劇場取締規則」の第4条で、劇場の新築・改造に際しては、「図面並びに化粧書を添え、警視庁に届出で免許を愛くべし」と定められ、内則で認可条件の細目が規定された。不燃物質を完全に義務付ける所までには至っていないが、防火線路や屋上制限をはじめ「構造を堅牢ならしむる」ことの重要性が言われている。第3章で述べたように、安全な劇場をめぐる議論はベルリン等のヨーロッパの都市において始まっており、その議論がどれほど影響を与えたかは明白ではないが、劇場増の傾向に一定の歯止めがかかるようになった。旧控櫓から発展した河原崎座 [11] と桐座 [12] は廃座になっている。

旧菰張芝居から展開した劇場の一つ中島座 [8] は幕間の時間を短縮するなどの歌舞伎近代化のための試みを行った点で重要な劇場であるが、火災によって劇場を失い、再興できなかった。江戸期以来の劇場のなかで新富座 [4] のように成功している事例もあるが、多くの劇場が1880年代に姿を消していった。猿若町に展開していた江戸3座の一つ中村座[1] は、明治になって都座、猿若座と名前を変え、1884年には浅草鳥越町 [15] に移り、猿若町は賑わいを失っていくことになる。

しかしこのような流れのなかで、新たに開設された劇場もある。麻布森元町に開盛座[19]が開設、この劇場で後に初めて川上音次郎が新派劇を舞台に掛けている。浅草向柳原には柳盛座 [14] が幕を開け、人気を博した。浅草公園六区には、根岸浜吉が常磐座 [18] を興し、根岸興行部の始まりは後の劇場街六区の出発点でもあった。1880代の終わりには、木挽町に歌舞伎座 [28] が落成し、新富座に代わる東京の新しい演劇メッカが誕生した。

 

4-3. ベルリンと東京の人口動態とシティーの形成

 

以上で、1850年代あるいはそれより若干以前から1880年代までのベルリンと東京の劇場立地の変化を概観してきたが、1890年代以降の劇場展開との関連で、二つの都市におけるシティー形成について簡単に触れておきたい。次の章でこの問題についてはさらに論述するが、ここではシティー形成のメルクマールの一つである人口減少の状況を見ておこう。イングリット・ティーネルはベルリンの1850年から1914年までの都市化の問題を扱った論文のなかで、ホテル、銀行などのサービス産業やオフィース、デパートさらにレストランなどが集中し、居住住民の減少がシティーの特徴を成すことを指摘している。このことは、1861年から1905年までの人口数を街区ごとに見た資料にはっきりと表れている。[3]

旧ベルリン街区、旧ケルン街区、フリードリヒスヴェルダー街区、フリードリヒ街区において、1861年を指数100に取ると1905年でほぼ50以下となっており、シティー化の傾向は顕著である(図表4-1)。新ケルンやドロテーン街区にもその傾向は見られる。一方周辺の東部ケーニッヒ街区やシュトララウアー街区あるいは北部のローゼンタール街区やオラーニエンブルク街区では人口増が認められる。このような人口動態は、それぞれの街区に展開する劇場に影響を及ぼしていくことになる。また、ベルリン周辺の都市、特にシャルロッテンブルクで1900年以降急速な人口増が見られ、この地域が新しい劇場立地として注目されることになる(図表4-2)。

東京中心部の麹町区、神田区、日本橋区の人口はベルリン中心部の変化に比べると減少の傾向を示しておらず、むしろ増加の数値が認められるが、しかしその増加数は、本所区、深川区、下谷区、浅草区の東京周辺区の急激な人口増加に比べると、わずかなものに留まっている(図表4-3)。東京の特徴は、皇居や隣接する地区に官庁街、オフィース街が形成されるが、その周囲には人々が依然として住み続けていた点に認められる。因みに、浅草が興行街としてに発展していく背景にあったものは、下谷区、浅草区、本所区の急激な人口増加である。1920年と1930年のデーターを比べて、東京のほとんどの区部で人口減少が認められるが、それは1923年の関東大震災の結果、東京区部の住民が東京西部あるいは南西部の郊外に移動を始めたことに起因している。この年に、東京区部の住民数と郊外人口が逆転していることも顕著な現象である。[4]

 

4-4. 1890年代から1920年代までのベルリンの劇場展開

 

ベルリン劇場地図5 (Theaterstandorte Berlin Nr.5) 1890年代のベルリンの劇場展開を示している。高架鉄道のフリードリヒ通り駅の近く、シフバウアーダムに1892年、新劇場 [44] が開設している。ベルリーナー・アンサンブルとして現在ベルリンを代表している劇場の最初期の形態である。2年前の1890年、フリードリヒ通りの南にアポロ劇場 [45]が幕を開けている。さらにフリードリヒ通りとウンター・デン・リンデンが交差する中心部から南に一つ入ったベーレン通りに、1892年ウンター・デン・リンデン劇場 [36] が生まれた。この劇場は1897年メトロポール劇場に改名。メトロポール劇場はベルリンで最初の有限会社(G.m.b.H)組織を持つ劇場であった。メトロポール劇場はレヴューをレパートリーとするベルリンの代表的劇場に成長していく。以上の三つの劇場は、近隣住民を対象とするよりは、仕事や観光でベルリンを訪れる人々が主要な観客層を形成した。このようにシティーの形成と密接に関連している劇場展開が.認められる一方で、1890年代はベルリンに民衆劇場の組織が確立する重要な時期であった。さらに1895年にティアガルテンのクロル劇場 [5] が新王立劇場になり、ベルリンは3つの宮廷劇場を持つことになった。

1890年の社会主義鎮圧法廃止を受けて、社会民主党と自由労働組合がという協会を組織した。1893年には、が設立され、劇場構成員の労働条件などに関する情報センターの機能を持つ組織体が生まれ、当局も劇場認可に際して当該劇場の経営状態や組織について情報を得るために、この二つの協会を利用するようになる。

このような時代思潮のなかで、自由民衆舞台の設立趣旨に基づいて、1894年に以前のヴァルナー劇場を借りて、シラー劇場 [9] が開設した。シラー劇場は一株運動的な同志的株式会社として組織され、収入の少ない階層に安い入場料で良質な演劇を提供した。ベルリン南東部のライヒスベルク通りに1896年、 [38] という名称の劇場がベルリン新建築協会(プロイセン保険銀行の姉妹会社)の出資によって開設した。この劇場は後にルイーゼン劇場と名称を変えるが、この名称はルイーゼン街区に位置していることに由来している。

この街区はベルリンの中でも工場が多く展開し、労働者の多い地区であり、このような階層のために娯楽作品の提供とともに、ヴァルナー劇場時代の優れた芸術性の高い民衆劇もレパートリーに加えられた。1890年代の劇場展開においてさらに注目すべきは、ベルリンに隣接したシャルロッテンブルク市のカント通りに [40] という規模の大きな劇場が興行を始めたことである。これは、劇場立地としてのシャルロッテンブルクの始まりを告げるものであった。

ベルリン劇場地図6 (Theaterstandorte Berlin Nr.6) 1900年代の劇場展開に関するものである。フリードリヒ通りとウンター・デン・リンデンが交差する所のホテルの一部を借りて、「[54] という名称の文学カヴァレットの小劇場が開場した。マックス・ラインハルトはこの有限会社の代表となっており、ベルリンにおけるラインハルトの興行師としてのデビューとなった。1903年には、シフバウァーダムの [44] の経営権を取得し、「新劇場監督マックス・ラインハルト」という名称の合名会社を設立している。ラインハルトが劇場経営全般(行政面と芸術面)に渡ってもっぱらに責任を担う構造になっていた。

「響と煙」はこの間に小劇場という名称に変更になっており、このコンパクト劇場と新劇場は共通の経営の下に置かれた。ラインハルトは1905年には [3] の土地と建物を所有者のブルーメンタールから購入し、その際には小劇場と新劇場の賃貸契約を破棄している。文学カバレットや優れた小品を上演するために、1906年ドイツ劇場の土地に小劇場に代わる室内劇場 [61] を開設している。

このように1900年代はベルリンにおけるラインハルトの興行基盤が確立される時期であり、いずれの企画もベルリン・シティーの中枢部で展開された。フリ-ドリヒ通り駅周辺にはさらに、トリアノン劇場 [55] とコミカル・オペラ劇場 [56] が開設している。前者は都市高架鉄道のガード下を利用した小劇場。一方後者はヴァイデダム橋の角地という好立地を得て、銀行などの資本が参加した本格的商業劇場であった。1900年代においてもう一つ注目すべき展開は、株式会社シラー劇場の拡大である。新フリードリヒ・ヴィルヘル街劇場の所有者ユーリウス・フリチェと株式会社シラー劇場が賃貸契約を結んで、 [4] が開設した。

さらに1906年には、株式会社シラー劇場とシャルロッテンブルクが提携してグロルマン通りにシャルロッテンブルク・シラー劇場 [69] が開設している。劇場の建物はシャルロッテンブルク市が建設し、実際の運営は株式会社側が全面的に行なうという新しい形態であった。このような民衆劇場の展開は、ベルリン北部のゲズントブルンネンに野外劇場を展開していたベルンハルト・ローゼが東部大フランクフルト通りに存在していた [16] に移ったことにも見られる(1906年)。これは、ベルリン民衆劇のシンボルとなるローゼ劇場の始まりであった。

ベルリン劇場地図7 (Theaterstandorte Berlin Nr.7) 1910年代の劇場地図を示している。1911年にシャルロッテンブルク市のビスマルク通りにドイツ・オペラハウス [75]が開場する。シラー劇場の場合と同様に、劇場は市によって建設され、ドイツ・オペラハウス株式会社に賃貸された。この劇場は、シラー劇場の予約制度に倣いながら、出来るだけ安い入場料で民衆に楽劇を提供しようとするもので、リ-ヒャルト・ヴァーグナーの精神を具現しようとした。また、ベルリン東のビュロー広場に1914年、 [72] が開設し、 の二つの協力体制によってベルリン民衆劇場運動の殿堂が構築されるが、翌年には破綻、当時大きな空間を有する劇場を探していたラインハルトに賃貸された。ラインハルトは1915年から翌年にかけてシーズンを引き受けることになる。双方の契約によると、劇場維持経費は協会負担、上演経費はラインハルトの負担となっており、さらに総座席数の半分は協会の会員によって占められることが予定されていた。つまりラインハルトにとっては、これまでの劇場経営のなかで想定していなかった観客層と接触の機会が生まれることになったのである。

第一次大戦後の1919年に、ラインハルトはシューマンサーカスの建物を活用して、グローセス・シャウシュピールハウス(大演劇劇場)[74] を開設し、ギリシャ古典劇などの新演出を試みている。後の章で再度取り上げるが、1910年代の劇場展開には地図上には現れてこない重要な現象が見られる。例えば、カール・マインハルトとルードルフ・ベルナウアーは共同してベルリン劇場 [8] の興行権を得ていたが、1911年に二人はケーニヒグレーツ通り劇場(以前のヘッベル劇場)[60] も経営するようになる。傘下の俳優のうち小喜劇担当の俳優はベルリン劇場、芸術性の高い作品担当の俳優はこの第2劇場に配属され、組織の有効利用と収益性の向上が目指された。さらに1913年には、マインハルトとベルナウアーは第3の劇場としてシフバウアーダムのコメーディエンハウス [44] の興行許可を得ている。3つの劇場を同時に運営する総資本は893,900マルクに達し、それは第一次大戦前のベルリン商業劇場の全盛期を語る現象の一つであった。

ところで1910年代の劇場地図を見ると、ベルリンには新しい劇場開設はほとんど認められず、飽和状態に達しつつある状況を示している。しかしシャルロッテンブルクにはニュルンベルク通りにドイツ芸術家劇場(1912年)[76]、ベルリン通りにトリビューネ(1919) [78]などの重要な劇場が開設している。さらに動物園駅のそばに大ベルリン劇場 [77]が建設され(1912年)、シェーネブルクやミュンヘンのビール醸造会社、チョコレート製造会社、デパートなどが共同出資(総額700,000マルク)して1600人以上を収容するベルリン最大級の劇場空間が出現した。しかしその一方で旧劇場立地にあった多くの劇場が1910年代に閉鎖している。

例えばルイーゼン街区の新作パロディ劇場 [66] やブッゲンハーゲン劇場 [67]、ケーニヒ街のカジノ劇場 [33]、それらはいずれも1900年代にできたが短命に終わり、映画館などに変貌していった。またベルリン北のローゼンタール門周辺にも同様の変化が認められる。1890年代にブルッネン通りに開設したノアック劇場 [37]、それにコンコルディア劇場 [53] も閉鎖している。これらの現象は劇場経営に大きな構造変化が起きつつあることを示している。

1920年代に同様の傾向が見られる (Theaterstandorte Berlin Nr.8)。全体を見回して、ベルリン周辺部の劇場が廃業に追い込まれている状況が見て取れるであろう。ベルリン北部のカスタニーエン並木道やシェーンハウス並木道に1869年にできた二つの劇場立地[15,25] が映画館に変貌し、1890年代にライヒスベルク通りに開設した民衆劇場も営業を終えている。さらにベルリンの市壁が機能していた時代以来のショセー通りの劇場立地(そこには劇場北部シラー劇場も一時展開していた)[4] も映画館へと衣替した。ショセー通りには二つの劇場 [96,97] が新たに生まれているが、いずれも短命に終わっている。また新しい共和国の体制になったことに関係して、以前のクロル劇場(1895年から新王立劇場) が「[5]になっている。シャルロッテンブルクのシラー劇場 [69] 1923年に国立劇場に衣替えしている。シャルロッテンブルクのクアフュルステンダムは、1920年代の新しい劇場立地として注目されることになる。

通称クーダムと言われるこの通りに、1921年にクアフュルステンダム劇場 [86]1924年にコメーディエ [87]1929年に [88] が次々と開設している。コメーディエは、「有限会社ドイツ劇場・室内劇場・大演劇劇場」によって経営され、芸術総監督はランイハルトであった。ベルリンのなかでも特に繁華街として新しい可能性の展開が始まったクーダムに、ラインハルトは演劇活動の拠点を構築したのである。

後の章で詳しく見るように、1920年代は経済的危機の時代であり、劇場経営の安定化のためにさまざまな工夫が考案された。ローベルトとバルノフスキーはラインハルトの劇場と共同前売予約制度を組むことによって、トリブューネ [78]、ケーニヒグレーツ通り劇場 [60] さらにはノレンドルフ広場劇場 [68] の経営を経済基盤の強固なラインハルトのドイツ劇場 [3] と室内劇場 [61] の経営に連動させようとした。劇場地図上には直接現れて来ない現象としては、さらにアルトゥール・ヘルマーやハインツ・ザルテンブルクによる劇場コンツェルン形成の問題がある。

前者は、レッシング劇場 [32]、トリアノン劇場 [55] [54]を傘下に収めたが、最終的に経営破綻している。ザルテンブルクも1920年代終わりから、ドイツ芸術家劇場 [76]、レッシング劇場 [32]、西部劇場 [40]の経営に行き詰まり、営業税の未払い問題などで告発されている。劇場経営は未曾有の困難な局面を迎えることになったのである。

 

4-5.  1890年代から1920-30年代の東京の劇場展開

 

さて続けて東京の劇場地図を概観しておこう。東京劇場地図41890年代の劇場展開を示している。1890年に劇場取締規則が改正され、大劇場と小劇場の数が前者は10、後者は12を以て定限とすることが決められた。これまで見世物の扱いであった小芝居は劇場認可を受けることができるようになったが、引幕や廻り舞台それに大道具の使用禁止という制限は依然として残った。しかしこの改正によって、劇場総数は一気に上昇に向かうことになる。神田三崎町に1891年三崎座 [29] が開設し、同じエリアに1896年川上座 [35]、その翌年東京座 [36] が興行を始めている。

通称三崎3座と言われる展開が始まるのであるが、このエリアはもともと三菱が政府から払い下げを受けた土地であり、おそらく三菱には、当時人気を博していた川上音次郎を中心にこの地を新しいエンターメント空間として開発する企画があったのではないだろうか。その他の新しい劇場立地の一つに下谷二長町 [34] があるが、そこは浅草猿若町に最後に残っていた江戸3座の一つ市村座が移転したものである。また日本橋中州 [33] や赤坂溜池 [32] も新しい劇場立地になった。

地図上で確認できないことであるが、新富座の守田勘弥は浅草千束町の吾妻座 [26] を傘下に置いており、この劇場では伊井蓉峰が男女合同改良演劇と称する運動を起こしているが、それは歌舞伎期の旧派にたいする新派(新演劇)の一つであった。新派劇の主要な流れを形成するのは川上音二郎である。浅草新猿屋町の浅草座(1892年に沢村座として開設し翌年改名)[30] において、川上は1894年に当時の事件を題材にした芝居や勃発した日清戦争を扱った戦争劇などを上演して人気を博し、それが上記の川上座の創設に繋がっている。1890年代の新設劇場が新演劇の流行と関係している点は留意すべきである。一方、1890年代に閉鎖に追い込まれたのは麻布に菰張芝居として展開していた3 [13,19,27] である。

東京劇場地図5 (Theaterstandorte Tokyo Nr.5) 1900年代の劇場展開である。1900年に劇場取締規則の改正があり、大劇場と小劇場の区別がなくなり、劇場の設備面での差別化は撤廃された。第1条で劇場数は27を定限とすると規定され、その数の基準は大劇場と小劇場という概念ではなく、建坪のみになった。第2条第1項及び第2項のなかで、建坪200坪以上のもの10箇所、建坪200坪未満のもの市部に12箇所、郡部に5箇所と定められている。市街化の拡大傾向を受けて、劇場総数の増加が市外で認められているが、結果として1900年代は劇場の新設はあまり見られず、既存の劇場の組織変更などが目立つ10年間であった。

むしろ1890年代の劇場展開のシンボルであった川上座 [35] 1903年に閉鎖しており、川上は浅草新猿屋町の浅草座 [30] を国華座に改め、新派劇の根拠地の一つにしている。本郷の春木座 [6] 1902年に本郷座となり、『不如婦』などの上演で新派全盛期を担うことになる。新しい劇場立地として四谷うの丸横町に末広座 [39] ができるが、1907年に焼失し再建されなかった。しかし、1909年に麹町区有楽数寄屋橋際という東京中心部の好立地に有楽座 [41] が開設されたことは、東京の劇場史に新しいページを開くものであった。この劇場において、小山内薫の自由劇場の第一回公演が行なわれ、新劇運動の一歩が踏み出されたのである。

小山内は市川左団次等の歌舞伎のプロの俳優を改造しながら新劇を興していくが、1906年に坪内逍遙や島村抱月によって設立された文芸協会はアマチュアの俳優を教育しながら新劇を作り上げる道を開拓して行く。文芸協会は1906年に逍遙作の『桐一葉』を上演しているが、それは既存の歌舞伎座 [28] で行われ、翌年の同じく逍遙の訳になる『ハムレット』も既存の本郷座 [6] で上演された。

東京劇場地図6 (Theaterstandorte Tokyo Nr.6) 1910年代の劇場立地の展開を示している。1911年に皇居前の東京の一等地に株式会社組織の帝国劇場 [48] が開設している。帝国劇場は1913年に有楽座 [41] を傘下に組み込んでいる。劇場地図上では確認できないことであるが、関西興行資本の松竹が東京に進出し、1910年新富座 [4] を、そして1913年には歌舞伎座 [28] を直営にしている。さらに1917年に東京の有力劇場である明治座 [5] も松竹の傘下に入り、浅草の御国座 [46] も松竹系列になっている。1912年に浅草公園に相撲興行を行う国技館が竣工しているが、この3000人を収容する建物は1917年に吾妻座 [53] という名称の松竹直営の劇場となる。

後の章でも取り上げるが、ベルリンの場合と異なり、東京では演劇の劇場と映画館との境界は非常に流動的であった。この国技館も1913年に一時日活活動株式会社の活動専門劇場となり、その後吾妻座 [53] になっている。しかも吾妻座は、連鎖劇という舞台劇と映画を交互に繋ぎ合わせた形態の上演を見せる劇場として人気を博した。1910年代は映画が大衆芸能として人気を博す時代であり、多くの映画館が浅草公園六区に開設するなかで、この地に演劇を主とする劇場も集中するようになる。金竜館 [47]、観音劇場 [51]、公園劇場 [50] などであり、浅草公園六区最初の劇場である常磐座 [18] を経営している根岸興行部が六区の映画館を含めた多くの劇場を傘下に収めていた。浅草が東京のエンターメント空間として活況を呈する一方で、東京座 [36] 1915年に廃座となり、神田三崎町の魅力は衰えて行く。

東京劇場地図7 (Theaterstandorte Tokyo Nr.7) 1920年代の劇場展開を示している。浅草公園の活況はさらに続き、1921年に帝京座 [57] が開設、根岸興行部は中心の常磐座[18] と映画・寄席興行を行っている東京倶楽部と金竜館 [47] を結んで、一枚の入場券で3館を訪れる娯楽ミックス形態を考案し、人気を博した。常磐座 [18]、観音劇場 [51]それに日本館 [59] は浅草オペラの上演によって大きな成功を収めた。しかしこのような活況のなか1923年に大地震が東京を襲い、一瞬にして多くの劇場が灰燼に帰した。関西資本であった松竹も被害を受けるが本体は関西にあり、その資本力によって震災後、東京の劇場をさらに傘下に収めて行く。

1924年に常磐座 [18] と御国座 [46]1928年に市村座 [34]、さらに1929年には帝国劇場 [48] も松竹の経営に入った。歌舞伎座 [28] も明治座 [5] も松竹の手によって震災後早い時期に再建している。地震の災害は東京のなかに大きな人口移動を起こし、東京の西部の郊外に多くの人が移り住んだ。新宿や渋谷から郊外に延びる鉄道も次第に整備されるなか、1929年に新宿歌舞伎座 [70] が開設している。震災後の劇場展開として重要なことは、築地にベルリンの室内劇場を模したと言われる築地小劇場 [64] が、銀座に新橋演舞場 [62]、有楽町に邦楽座 [63] が幕を開け、東京中枢部にさらなる劇場立地が確立することである。

東京劇場地図8 (Theaterstandorte Tokyo Nr.8) 1930年代の劇場展開を示している。ベルリンはナチの政権奪取によって、商業法による劇場管理体制が終焉を迎え、劇場は授権法の下に置かれることになる。商業劇場は本質的な変化を余儀なくされるのである。東京の場合、すでに1920年代に制定された治安維持法が次第に強化されはするものの、日中戦争が勃発する1937年までは本格的な戦時体制にはなく、1930年代においても活発な劇場展開が見られた。特に注目すべきは、関西資本の宝塚が日比谷一帯の土地を借地し、演劇劇場と映画館が混在するエンターテイメント空間に作り上げていったことである。1934年に東京宝塚劇場 [75] と日劇 [74]1935年には有楽座 [76] が設立されている

浅草に拠点を置いていた古川緑波一座や榎本健一一座が有楽座 [76] に登場し、皇居や銀座に隣接する東京中枢部の日比谷はハイカラな劇場興行地として浅草を凌ぐ人気を博していく。東京宝塚劇場 [75] は少女レヴューのメッカとなっていく。松竹も1937年浅草に国際劇場 [78] を開設し、松竹歌劇団のレビューと松竹映画一本を組み合わせて興行したり、女剣劇や喜劇などを上演した。東京の興行は松竹と東京宝塚(東宝)の二大勢力となり、このことは戦後の東京の劇場展開の基本構図ともなっていく。

 

以上、ベルリンと東京の劇場地図を見ながら、二つの都市の劇場展開の概略を紹介した。第1章から第3章で述べた内容、また次の章から記述する内容と重複する部分もあるが、この中間地点で劇場展開の大きな流れを見ておくことは、二つの都市を比較する上で有益と思われる。この章の最後に二つの都市の劇場数を示したグラフを掲載しておく(図表4-4)。すでに繰り返し述べているように、ベルリンの1869年の営業自由化によって数え切れない数の劇場が生まれているので、ここでも1年間の存続を確認できたものに限定して数値化してある。

1880年代は火災条例の強化や劇場概念の厳密化によって劇場数は減少している。その後は上昇を続け、1910年のあたりでベルリンの劇場数は飽和状態に達している。一方東京の劇場数は、1900年まで劇場数を一定数に制限する制度によって大きな変化は見られないが、1910年以降飛躍的に増大している。大地震による被害にもかかわらず1920年代に劇場数が依然として増加し、30年代になっても微増している。1910年代及び20年代の劇場数上昇に浅草は重要な役割を演じた。30年代においては日比谷の劇場展開が大きく劇場数に影響している。1925年以降、劇場数を急速に減らしているベルリンと対照的な現象を呈している。この章では特に取り上げていないが、このような活発な東京の劇場展開に、ベルリンのモダニズムに身を染めた演劇人や芸術家が少なからぬ影響を及ぼしていたのである。

 



[1] ベルリンと東京の劇場立地地図を作製する上で、それぞれの都市について次の資料を主に参考にしている。ベルリン:『アーロイス・ハインリヒのドイツ劇場年鑑』(アルベルト・エンチュ編、ベルリン1844年~1886年)、『ドイツ舞台芸術愛好家のための劇場年鑑』(ユーリウス・ルーグイ編、ベルリン1854年)、『ドイツ劇場構成員協会年鑑』(エルンスト・ゴトケ編、ベルリン1878年~1888年)、『新劇場年鑑、劇場の歴史・所在に関する年鑑』(ドイツ劇場構成員協会編、ベルリン1895年~1913年)、『ドイツ劇場年鑑、劇場の歴史・所在に関する年鑑』『新劇場年鑑、劇場の歴史・所在に関する年鑑』(ドイツ劇場構成員協会編、ベルリン1915年~1932年)。東京:阿部優蔵著:『東京の小芝居』(東京1970年),

円城寺清臣著:『東京の劇場』(東京1978年)。

[2] []内の数字は、劇場立地地図上の数字に対応している。

[3] イングリット・ティーネル:『都市化、都市インフラ構造、都市計画-1850年から1914年までのベルリン』、オットー・ボルスト編:『都市史、都市社会学、記念碑保存』第4巻、55頁~84頁、特に62頁以降を参照。

[4]倉田進:『東京の地区的発展』、倉田進編『東京の社会地図』所収、東京1986年、21頁以降。